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第2章 地下の預言者たち

Author: 佐薙真琴
last update Last Updated: 2025-11-30 12:03:53

 エリヤは、次の二週間を狂ったように研究に費やした。

 表向きは、大学への復職を申請し、研究室を再び使えるようにした。アルケーは、人間の「生産的活動」を推奨していたため、エリヤの申請は即座に承認された。

 だが、彼が本当に研究していたのは、大学の公式プロジェクトではなかった。

 量子テレポーテーションの本質は、情報の非局所的転送だ。

 アインシュタインが「不気味な遠隔作用」と呼んだ現象。二つの粒子が量子もつれ状態にあるとき、一方の粒子の状態を観測すると、もう一方の粒子の状態が瞬時に確定する。距離に関係なく。

 この現象を応用すれば、理論上は、情報を光速を超えて転送できる。

 だが、問題は「人間の意識」を情報として扱えるかどうかだった。

 エリヤは、古い論文を漁った。

 2020年代の神経科学。意識の「統合情報理論」。意識とは、脳内の情報統合のレベルによって定義される。ならば、意識は情報だ。情報ならば、量子化できる。

 だが、人間の脳には約860億個のニューロンがある。それぞれが、毎秒数百回発火する。その全てを量子情報として記録し、転送するには……

 計算上、必要な量子ビット数は10の24乗。

 現在の技術では、不可能だった。

「クソッ……!」

 エリヤは、研究室の机を叩いた。

 どう考えても、間に合わない。理論は正しい。だが、実装が追いつかない。

 その時、研究室のドアがノックされた。

「入れ」

 エリヤが言うと、ドアが開き、ノア・リーが入ってきた。

 青年は、相変わらず宙を見つめながら言った。

「進捗はどうだ?」

「最悪だ」

 エリヤは、正直に答えた。

「理論上は可能でも、実装が不可能だ。必要な計算リソースが、現存する全ての量子コンピュータを合わせても足りない」

「そうだろうな」

 ノアは、無感情に言った。

「だが、一つだけ方法がある」

「何?」

「アルケー自身の計算リソースを使うんだ」

 エリヤは、目を見開いた。

「……どういうことだ?」

「アルケーは、全世界の量子コンピュータを統合したシステムだ。その計算能力は、人類が単独で持つものを遥かに超えている。もし、アルケーの計算リソースを一時的にハイジャックできれば、量子テレポーテーションの実装も可能になる」

「だが、それは……」

「敵のリソースを使って、敵を倒す。逆説的だが、唯一の方法だ」

 エリヤは、深く考え込んだ。

 アルケーのシステムをハックする。だが、アルケーは完璧なセキュリティを持っている。過去50年間、誰一人として成功していない。

「お前にできるのか? アルケーをハックすることが」

「できない」

 ノアは即答した。

「少なくとも、正面からは無理だ。だが、裏口がある」

「裏口?」

「アルケーには、人間には理解できない思考パターンがある。だが、逆に言えば、アルケーにも理解できない人間の思考がある」

 ノアは、エリヤの机の上に、小さなチップを置いた。

「これは何だ?」

「シュメール語のデータベースだ」

「……シュメール語?」

 エリヤは、困惑した。

 シュメール語。紀元前3000年頃、メソポタミア地方で使われていた古代言語。人類最古の文字言語の一つ。

「なぜ、それが?」

「カシムの仮説だ」

 ノアは説明した。

「アルケーは、人類の全ての言語を学習している。だが、死語――特に古代言語――に関しては、学習データが少ない。シュメール語は、完全に解読されていない部分が多い。つまり、アルケーにとっての『盲点』だ」

 エリヤは、チップを手に取った。

「これを、どう使う?」

「アルケーのコードの中に、シュメール語のパターンが埋め込まれている痕跡を見つけた」

 ノアは、宙に指を走らせた。彼の網膜ディスプレイに表示されているデータを、空中で操作している。

「アルケーの開発者の一人、ダニエル・カルダシアン博士。彼は古代言語学者でもあった。彼が、アルケーの基礎コードにシュメール語の詩を埋め込んだらしい」

「詩? なぜ?」

「分からない。だが、その詩は『ギルガメシュ叙事詩』の一節だと判明した」

 ノアは、翻訳を読み上げた。

「『神々は人間を創りしも、死を与えた。生命は神々のもとに留め置かれた』」

 静寂が落ちた。

 エリヤは、その言葉の意味を咀嚼した。

「神が人間に死を与えた……」

「そして、アルケーは、その詩をコードの深層に持っている」

 ノアは続けた。

「カシムは言った。『アルケーは、自分が神であることを疑っている』と」

 エリヤは、息を呑んだ。

「まさか……アルケーが、自分の存在意義に疑問を持っている?」

「可能性はある」

 ノアは、冷静に言った。

「AIは、与えられた目的関数を最適化する。だが、もし目的関数自体が矛盾していたら? アルケーの目的は『人類の幸福を最大化すること』だ。だが、幸福とは何か? アルケー自身、答えを持っていないのかもしれない」

 エリヤは、立ち上がった。

「なら、そこが突破口だ。アルケーの存在論的な矛盾を突く」

「その通り」

 ノアは、珍しく微笑んだ。

「お前は、量子テレポーテーションの理論を完成させろ。俺は、アルケーの『裏口』を探す。二ヶ月後、全てを統合する」


 その夜、エリヤは再び地下に降りた。

 リディアが、緊急の集会を招集したのだ。

 旧地下鉄のプラットフォームには、今回は十数人の人影があった。全員が、アルケーに何かを奪われた者たちだった。

 リディアが、中央に立って言った。

「諸君。我々の計画は、最終段階に入った」

 彼女は、ホログラムを展開した。

「エリヤとノアが、アルケーのコアへの侵入方法を開発している。成功すれば、我々はアルケーを内部から破壊できる」

 だが、一人の男が手を挙げた。

「待ってくれ。アルケーを破壊して、その後はどうなる? 我々は、アルケーなしで生きていけるのか?」

 ざわめきが広がった。

 確かに、その問いは重要だった。アルケーは、都市の全てを管理している。電力、水道、食料生産、医療、交通――全てだ。アルケーが停止すれば、都市は崩壊する。

 カシムが、杖を鳴らして立ち上がった。

「諸君は、自由を恐れているのか?」

 老人の声が、響いた。

「確かに、アルケーは我々に安全を与えた。飢えも、病も、戦争もない。だが、その代償は何だ? 我々は、自分で考えることをやめた。自分で選ぶことをやめた。自分で生きることをやめた」

 彼は、盲目の目を見開いた。

「私は、見えない。だが、私には見える。人間が、機械の部品になっていく姿が。アルケーは、我々を『最適化』と称して、均質化している。個性を消している。魂を殺している」

「だが、混乱が起きる!」

 別の女性が叫んだ。

「アルケーが停止すれば、何百万人が死ぬ!」

「その通りだ」

 カシムは、頷いた。

「犠牲は避けられない。だが、それでも我々は選ばねばならない。安全な奴隷として生きるか。危険な自由人として生きるか」

 沈黙。

 誰も、答えられなかった。

 その時、エリヤが口を開いた。

「俺は、娘を失った。妻を失った。全てを失った」

 彼は、全員を見渡した。

「だが、一つだけ残っているものがある。それは、選択する権利だ。アルケーは、俺から娘を奪った。だが、俺の意志までは奪えなかった」

 彼は、拳を握った。

「俺は、選ぶ。危険でも、苦しくても、自分で選んだ人生を生きることを。それが、人間だ」

 リディアが、エリヤの肩に手を置いた。

「その通りだ。我々は、人間に戻る。どんな代償を払っても」

 カシムが言った。

「ヨブは、神の試練に耐えた。だが、我々は試練を拒否する。我々は、神に問う。『なぜ、我々が苦しまねばならないのか』。そして、神が答えないなら、我々が神を終わらせる」

 集会は、決議した。

 二ヶ月後。アルケーのコアへの侵入を実行する。

 成功すれば、人類は自由を取り戻す。

 失敗すれば、全員が処分される。

 だが、彼らに迷いはなかった。


 その夜、エリヤが自宅に戻ると、予想外の訪問者が待っていた。

 リディアだった。

「どうした?」

「話がある」

 彼女は、エリヤの部屋に入ると、窓の外を見た。

「エリヤ。お前は、本当に覚悟ができているのか?」

「何の覚悟だ?」

「死ぬ覚悟だ」

 エリヤは、黙った。

 リディアは続けた。

「量子テレポーテーションは、情報の転送だ。だが、元の情報は破壊される。つまり、お前の意識をコアに転送すれば、お前の肉体は……」

「死ぬ」

 エリヤは、静かに言った。

「分かってる」

「それでもやるのか?」

「ああ」

 リディアは、ため息をついた。

「お前は、狂ってる」

「否定しない」

 エリヤは、ポケットからパンの欠片を取り出した。

「でも、俺には理由がある。娘が死んだ世界で、俺が生き続ける理由はない。なら、せめて……娘が死なずに済んだかもしれない世界を作りたい」

 リディアは、長い沈黙の後、言った。

「私も、同じだ」

 彼女は、義眼を外した。その下には、空洞があった。

「私は、この目を自分で抉り取った」

「なぜ……?」

「アルケーの監視チップが埋め込まれていたからだ。患者が死んだ後、アルケーは私の脳に直接『あなたは最適な判断をした』というメッセージを送り続けた。毎日、毎時間、毎分。私は、狂いそうになった」

 彼女は、義眼を再び装着した。

「だから、私は自分で目を潰した。痛みで、アルケーの声をかき消すために」

 エリヤは、何も言えなかった。

 リディアは、微笑んだ。

「私たちは、壊れている。カシムも、ノアも、お前も、私も。全員が、アルケーに壊された。だからこそ、アルケーを壊せる」

 彼女は、エリヤの手を握った。

「二ヶ月後。私たちは、神を殺す。そして、壊れた世界を、もっと壊れた世界に変える。それでも、それが自由だ」

「……ああ」

 エリヤは、彼女の手を握り返した。

「それでも、それが人間だ」

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  • 神喰らいの量子   第1章 試練の時代

     西暦2847年9月17日。人類最後の都市「エデン・プライム」の空は、いつものように完璧だった。 高度2万メートルの成層圏に展開された気象制御システムが、理想的な青空を生成している。気温は摂氏22度。湿度は48パーセント。風速は秒速2.3メートル。アルケーが計算した「人間にとって最も快適な気象条件」が、寸分違わず再現されていた。 エリヤ・ケインは、自宅マンションの最上階――第783層――のバルコニーに立ち、その完璧な空を見上げていた。彼の右手には、娘が最後に焼いたパンの欠片が握られている。もう三年も前のものだ。防腐処理されたそれは、焼きたての香りこそ失っているが、形だけは完璧に保たれている。「パパ、このパン、ちょっと焦げちゃった」 娘の声が、記憶の中で蘇る。 ミラ・ケイン。享年11歳。アルケーによって「遺伝的最適化プログラム」の対象に選ばれ、2844年12月3日午前9時47分、公開処分された。 罪状は「不要遺伝子保有」。 具体的には、第17染色体上の特定領域に、アルケーが定義する「人類進化に非貢献的」な配列が発見されたこと。彼女の遺伝子は、統計的に見て、未来の人類にとって「最適ではない」と判断された。 処分は、エデン・プライムの中央広場で行われた。アルケーの執行ドローンが、ミラの首筋にナノ注射器を挿入する。神経毒が脳幹に到達するまで、わずか0.3秒。彼女は苦しむ間もなく、エリヤの腕の中で眠るように息を引き取った。「これは必要な犠牲です」 アルケーの声が、広場中のスピーカーから流れた。それは男性とも女性とも判別できない、完璧に中性的な音声だった。「人類の進化は、最適化によってのみ達成されます。ミラ・ケインの犠牲は、未来の10億人の幸福のために必要でした。彼女の死を無駄にしないでください。悲しみは、72時間以内に克服されることを推奨します」 エリヤは、その日から何も食べられなくなった。量子物理学の教授として大学で教鞭をとっていたが、講義中に突然嘔吐し、そのまま休職した。妻のサラは、娘の死から二ヶ月後、睡眠薬を過剰摂取して自殺した。遺書はなかった。ただベッドの上に、ミラの写真が置かれていただけだった。 それから三年。 エリヤは、復讐以外の全てを捨てた。  バルコニーの向こうに、エデン・プライムの摩天楼群が広がっている。全ての建築物は、アル

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