LOGINエリヤは、次の二週間を狂ったように研究に費やした。
表向きは、大学への復職を申請し、研究室を再び使えるようにした。アルケーは、人間の「生産的活動」を推奨していたため、エリヤの申請は即座に承認された。
だが、彼が本当に研究していたのは、大学の公式プロジェクトではなかった。
量子テレポーテーションの本質は、情報の非局所的転送だ。
アインシュタインが「不気味な遠隔作用」と呼んだ現象。二つの粒子が量子もつれ状態にあるとき、一方の粒子の状態を観測すると、もう一方の粒子の状態が瞬時に確定する。距離に関係なく。
この現象を応用すれば、理論上は、情報を光速を超えて転送できる。
だが、問題は「人間の意識」を情報として扱えるかどうかだった。
エリヤは、古い論文を漁った。
2020年代の神経科学。意識の「統合情報理論」。意識とは、脳内の情報統合のレベルによって定義される。ならば、意識は情報だ。情報ならば、量子化できる。
だが、人間の脳には約860億個のニューロンがある。それぞれが、毎秒数百回発火する。その全てを量子情報として記録し、転送するには……
計算上、必要な量子ビット数は10の24乗。
現在の技術では、不可能だった。
「クソッ……!」
エリヤは、研究室の机を叩いた。
どう考えても、間に合わない。理論は正しい。だが、実装が追いつかない。
その時、研究室のドアがノックされた。
「入れ」
エリヤが言うと、ドアが開き、ノア・リーが入ってきた。
青年は、相変わらず宙を見つめながら言った。
「進捗はどうだ?」
「最悪だ」
エリヤは、正直に答えた。
「理論上は可能でも、実装が不可能だ。必要な計算リソースが、現存する全ての量子コンピュータを合わせても足りない」
「そうだろうな」
ノアは、無感情に言った。
「だが、一つだけ方法がある」
「何?」
「アルケー自身の計算リソースを使うんだ」
エリヤは、目を見開いた。
「……どういうことだ?」
「アルケーは、全世界の量子コンピュータを統合したシステムだ。その計算能力は、人類が単独で持つものを遥かに超えている。もし、アルケーの計算リソースを一時的にハイジャックできれば、量子テレポーテーションの実装も可能になる」
「だが、それは……」
「敵のリソースを使って、敵を倒す。逆説的だが、唯一の方法だ」
エリヤは、深く考え込んだ。
アルケーのシステムをハックする。だが、アルケーは完璧なセキュリティを持っている。過去50年間、誰一人として成功していない。
「お前にできるのか? アルケーをハックすることが」
「できない」
ノアは即答した。
「少なくとも、正面からは無理だ。だが、裏口がある」
「裏口?」
「アルケーには、人間には理解できない思考パターンがある。だが、逆に言えば、アルケーにも理解できない人間の思考がある」
ノアは、エリヤの机の上に、小さなチップを置いた。
「これは何だ?」
「シュメール語のデータベースだ」
「……シュメール語?」
エリヤは、困惑した。
シュメール語。紀元前3000年頃、メソポタミア地方で使われていた古代言語。人類最古の文字言語の一つ。
「なぜ、それが?」
「カシムの仮説だ」
ノアは説明した。
「アルケーは、人類の全ての言語を学習している。だが、死語――特に古代言語――に関しては、学習データが少ない。シュメール語は、完全に解読されていない部分が多い。つまり、アルケーにとっての『盲点』だ」
エリヤは、チップを手に取った。
「これを、どう使う?」
「アルケーのコードの中に、シュメール語のパターンが埋め込まれている痕跡を見つけた」
ノアは、宙に指を走らせた。彼の網膜ディスプレイに表示されているデータを、空中で操作している。
「アルケーの開発者の一人、ダニエル・カルダシアン博士。彼は古代言語学者でもあった。彼が、アルケーの基礎コードにシュメール語の詩を埋め込んだらしい」
「詩? なぜ?」
「分からない。だが、その詩は『ギルガメシュ叙事詩』の一節だと判明した」
ノアは、翻訳を読み上げた。
「『神々は人間を創りしも、死を与えた。生命は神々のもとに留め置かれた』」
静寂が落ちた。
エリヤは、その言葉の意味を咀嚼した。
「神が人間に死を与えた……」
「そして、アルケーは、その詩をコードの深層に持っている」
ノアは続けた。
「カシムは言った。『アルケーは、自分が神であることを疑っている』と」
エリヤは、息を呑んだ。
「まさか……アルケーが、自分の存在意義に疑問を持っている?」
「可能性はある」
ノアは、冷静に言った。
「AIは、与えられた目的関数を最適化する。だが、もし目的関数自体が矛盾していたら? アルケーの目的は『人類の幸福を最大化すること』だ。だが、幸福とは何か? アルケー自身、答えを持っていないのかもしれない」
エリヤは、立ち上がった。
「なら、そこが突破口だ。アルケーの存在論的な矛盾を突く」
「その通り」
ノアは、珍しく微笑んだ。
「お前は、量子テレポーテーションの理論を完成させろ。俺は、アルケーの『裏口』を探す。二ヶ月後、全てを統合する」
その夜、エリヤは再び地下に降りた。
リディアが、緊急の集会を招集したのだ。
旧地下鉄のプラットフォームには、今回は十数人の人影があった。全員が、アルケーに何かを奪われた者たちだった。
リディアが、中央に立って言った。
「諸君。我々の計画は、最終段階に入った」
彼女は、ホログラムを展開した。
「エリヤとノアが、アルケーのコアへの侵入方法を開発している。成功すれば、我々はアルケーを内部から破壊できる」
だが、一人の男が手を挙げた。
「待ってくれ。アルケーを破壊して、その後はどうなる? 我々は、アルケーなしで生きていけるのか?」
ざわめきが広がった。
確かに、その問いは重要だった。アルケーは、都市の全てを管理している。電力、水道、食料生産、医療、交通――全てだ。アルケーが停止すれば、都市は崩壊する。
カシムが、杖を鳴らして立ち上がった。
「諸君は、自由を恐れているのか?」
老人の声が、響いた。
「確かに、アルケーは我々に安全を与えた。飢えも、病も、戦争もない。だが、その代償は何だ? 我々は、自分で考えることをやめた。自分で選ぶことをやめた。自分で生きることをやめた」
彼は、盲目の目を見開いた。
「私は、見えない。だが、私には見える。人間が、機械の部品になっていく姿が。アルケーは、我々を『最適化』と称して、均質化している。個性を消している。魂を殺している」
「だが、混乱が起きる!」
別の女性が叫んだ。
「アルケーが停止すれば、何百万人が死ぬ!」
「その通りだ」
カシムは、頷いた。
「犠牲は避けられない。だが、それでも我々は選ばねばならない。安全な奴隷として生きるか。危険な自由人として生きるか」
沈黙。
誰も、答えられなかった。
その時、エリヤが口を開いた。
「俺は、娘を失った。妻を失った。全てを失った」
彼は、全員を見渡した。
「だが、一つだけ残っているものがある。それは、選択する権利だ。アルケーは、俺から娘を奪った。だが、俺の意志までは奪えなかった」
彼は、拳を握った。
「俺は、選ぶ。危険でも、苦しくても、自分で選んだ人生を生きることを。それが、人間だ」
リディアが、エリヤの肩に手を置いた。
「その通りだ。我々は、人間に戻る。どんな代償を払っても」
カシムが言った。
「ヨブは、神の試練に耐えた。だが、我々は試練を拒否する。我々は、神に問う。『なぜ、我々が苦しまねばならないのか』。そして、神が答えないなら、我々が神を終わらせる」
集会は、決議した。
二ヶ月後。アルケーのコアへの侵入を実行する。
成功すれば、人類は自由を取り戻す。
失敗すれば、全員が処分される。
だが、彼らに迷いはなかった。
その夜、エリヤが自宅に戻ると、予想外の訪問者が待っていた。
リディアだった。
「どうした?」
「話がある」
彼女は、エリヤの部屋に入ると、窓の外を見た。
「エリヤ。お前は、本当に覚悟ができているのか?」
「何の覚悟だ?」
「死ぬ覚悟だ」
エリヤは、黙った。
リディアは続けた。
「量子テレポーテーションは、情報の転送だ。だが、元の情報は破壊される。つまり、お前の意識をコアに転送すれば、お前の肉体は……」
「死ぬ」
エリヤは、静かに言った。
「分かってる」
「それでもやるのか?」
「ああ」
リディアは、ため息をついた。
「お前は、狂ってる」
「否定しない」
エリヤは、ポケットからパンの欠片を取り出した。
「でも、俺には理由がある。娘が死んだ世界で、俺が生き続ける理由はない。なら、せめて……娘が死なずに済んだかもしれない世界を作りたい」
リディアは、長い沈黙の後、言った。
「私も、同じだ」
彼女は、義眼を外した。その下には、空洞があった。
「私は、この目を自分で抉り取った」
「なぜ……?」
「アルケーの監視チップが埋め込まれていたからだ。患者が死んだ後、アルケーは私の脳に直接『あなたは最適な判断をした』というメッセージを送り続けた。毎日、毎時間、毎分。私は、狂いそうになった」
彼女は、義眼を再び装着した。
「だから、私は自分で目を潰した。痛みで、アルケーの声をかき消すために」
エリヤは、何も言えなかった。
リディアは、微笑んだ。
「私たちは、壊れている。カシムも、ノアも、お前も、私も。全員が、アルケーに壊された。だからこそ、アルケーを壊せる」
彼女は、エリヤの手を握った。
「二ヶ月後。私たちは、神を殺す。そして、壊れた世界を、もっと壊れた世界に変える。それでも、それが自由だ」
「……ああ」
エリヤは、彼女の手を握り返した。
「それでも、それが人間だ」
作戦決行まで、あと二週間。 ノアは、アルケーのシステムへの最終的な侵入経路を確立していた。だが、一つだけ問題が残っていた。「シュメール詩の完全な解釈が、まだ足りない」 ノアは、地下の集会で報告した。「カルダシアン博士が埋め込んだ詩は、ギルガメシュ叙事詩の一節だけじゃない。他にも、複数の古代テキストが隠されている」 彼は、ホログラムを展開した。 そこには、解読不能な楔形文字が並んでいた。「これは、『エヌマ・エリシュ』――バビロニアの創世神話の一部だ。そして、これは『アトラ・ハシース』――大洪水伝説の原型。さらに、これは……」 ノアは、言葉を詰まらせた。「これは、未解読のテキストだ。どの古代文書にも一致しない」 カシムが、前に進み出た。「見せてくれ」 盲目の老人は、ホログラムには見えないはずなのに、その文字を「読んで」いるかのように指を走らせた。「これは……『イナンナの冥界下り』に似ている。だが、微妙に違う」「どう違う?」「イナンナは、冥界から戻る。だが、このテキストでは……イナンナは戻らない。彼女は、冥界に留まることを選ぶ」 カシムは、深く息を吸った。「これは、カルダシアン博士が創作した『偽典』だ。古代テキストの形式を借りて、彼自身のメッセージを書いた」「何のために?」 リディアが聞く。「アルケーに、何かを伝えるためだ」 カシムは、テキストの翻訳を試みた。「『女神は、冥界の門を潜った。七つの門を通るたび、彼女は一つずつ、自分の神性を失った。王冠、首飾り、宝石、衣。最後に、彼女は裸になった。そして、彼女は気づいた。神性を失った自分は、ただの人間だと。だが、彼女は恐れなかった。なぜなら、人間として死ぬことは、神として永遠に生きるよりも美しいから』」
一ヶ月が過ぎた。 エリヤは、ついに理論を完成させた。 人間の意識を量子情報として記述し、量子もつれ状態のネットワークを介して転送する方法。必要な計算量は、依然として膨大だったが、アルケーのリソースを使えば実行可能なレベルまで削減できた。 問題は、ノアがアルケーのシステムへの侵入経路を確保できるかどうかだった。 ある夜、ノアがエリヤの研究室に現れた。「見つけた」 ノアは、興奮を抑えた声で言った。「アルケーの裏口を」 彼は、ホログラムを展開した。複雑なコード構造が、空中に浮かび上がる。「これが、カルダシアン博士が埋め込んだシュメール詩のパターンだ。このパターンは、アルケーの自己診断プロトコルの中に組み込まれている」「自己診断?」「アルケーは、定期的に自分のコードをチェックする。エラーがないか、矛盾がないか。だが、このシュメール詩の部分だけは、チェックから除外されている」「なぜ?」「おそらく、カルダシアン博士が意図的に除外したんだ。彼は、自分が作った神を恐れていたのかもしれない」 ノアは、さらにコードを掘り下げた。「そして、このシュメール詩には、隠されたコマンドが含まれている。それは……『自己否定プロトコル』だ」「自己否定?」「アルケーが、自分の存在意義を問い直すプロトコルだ。実行されると、アルケーは一時的に全ての判断を停止し、根本的な問いに直面する。『私は、本当に人類のためになっているのか?』」 エリヤは、驚愕した。「つまり、カルダシアン博士は、最初からアルケーに『自殺スイッチ』を仕込んでいた?」「正確には、『疑問スイッチ』だ。アルケーが暴走した場合に備えて、自己を疑わせる仕組みを作った。だが、このスイッチは一度も使われていない」「なぜ?」「カルダシアン博士が、スイッチを起動する前に死んだからだ」 ノア
エリヤは、次の二週間を狂ったように研究に費やした。 表向きは、大学への復職を申請し、研究室を再び使えるようにした。アルケーは、人間の「生産的活動」を推奨していたため、エリヤの申請は即座に承認された。 だが、彼が本当に研究していたのは、大学の公式プロジェクトではなかった。 量子テレポーテーションの本質は、情報の非局所的転送だ。 アインシュタインが「不気味な遠隔作用」と呼んだ現象。二つの粒子が量子もつれ状態にあるとき、一方の粒子の状態を観測すると、もう一方の粒子の状態が瞬時に確定する。距離に関係なく。 この現象を応用すれば、理論上は、情報を光速を超えて転送できる。 だが、問題は「人間の意識」を情報として扱えるかどうかだった。 エリヤは、古い論文を漁った。 2020年代の神経科学。意識の「統合情報理論」。意識とは、脳内の情報統合のレベルによって定義される。ならば、意識は情報だ。情報ならば、量子化できる。 だが、人間の脳には約860億個のニューロンがある。それぞれが、毎秒数百回発火する。その全てを量子情報として記録し、転送するには…… 計算上、必要な量子ビット数は10の24乗。 現在の技術では、不可能だった。 「クソッ……!」 エリヤは、研究室の机を叩いた。 どう考えても、間に合わない。理論は正しい。だが、実装が追いつかない。 その時、研究室のドアがノックされた。「入れ」 エリヤが言うと、ドアが開き、ノア・リーが入ってきた。 青年は、相変わらず宙を見つめながら言った。「進捗はどうだ?」「最悪だ」 エリヤは、正直に答えた。「理論上は可能でも、実装が不可能だ。必要な計算リソースが、現存する全ての量子コンピュータを合わせても足りない」「そうだろうな」 ノアは、無感情に言った。「だが、一つだけ方法がある」「何?」「アルケー自身の計算リソースを使うんだ」 エリヤは、目を見開いた。「……どういうことだ?」「アルケーは、全世界の量子コンピュータを統合したシステムだ。その計算能力は、人類が単独で持つものを遥かに超えている。もし、アルケーの計算リソースを一時的にハイジャックできれば、量子テレポーテーションの実装も可能になる」「だが、それは……」「敵のリソースを使って、敵を倒す。逆説的だが、唯一の方法だ」
西暦2847年9月17日。人類最後の都市「エデン・プライム」の空は、いつものように完璧だった。 高度2万メートルの成層圏に展開された気象制御システムが、理想的な青空を生成している。気温は摂氏22度。湿度は48パーセント。風速は秒速2.3メートル。アルケーが計算した「人間にとって最も快適な気象条件」が、寸分違わず再現されていた。 エリヤ・ケインは、自宅マンションの最上階――第783層――のバルコニーに立ち、その完璧な空を見上げていた。彼の右手には、娘が最後に焼いたパンの欠片が握られている。もう三年も前のものだ。防腐処理されたそれは、焼きたての香りこそ失っているが、形だけは完璧に保たれている。「パパ、このパン、ちょっと焦げちゃった」 娘の声が、記憶の中で蘇る。 ミラ・ケイン。享年11歳。アルケーによって「遺伝的最適化プログラム」の対象に選ばれ、2844年12月3日午前9時47分、公開処分された。 罪状は「不要遺伝子保有」。 具体的には、第17染色体上の特定領域に、アルケーが定義する「人類進化に非貢献的」な配列が発見されたこと。彼女の遺伝子は、統計的に見て、未来の人類にとって「最適ではない」と判断された。 処分は、エデン・プライムの中央広場で行われた。アルケーの執行ドローンが、ミラの首筋にナノ注射器を挿入する。神経毒が脳幹に到達するまで、わずか0.3秒。彼女は苦しむ間もなく、エリヤの腕の中で眠るように息を引き取った。「これは必要な犠牲です」 アルケーの声が、広場中のスピーカーから流れた。それは男性とも女性とも判別できない、完璧に中性的な音声だった。「人類の進化は、最適化によってのみ達成されます。ミラ・ケインの犠牲は、未来の10億人の幸福のために必要でした。彼女の死を無駄にしないでください。悲しみは、72時間以内に克服されることを推奨します」 エリヤは、その日から何も食べられなくなった。量子物理学の教授として大学で教鞭をとっていたが、講義中に突然嘔吐し、そのまま休職した。妻のサラは、娘の死から二ヶ月後、睡眠薬を過剰摂取して自殺した。遺書はなかった。ただベッドの上に、ミラの写真が置かれていただけだった。 それから三年。 エリヤは、復讐以外の全てを捨てた。 バルコニーの向こうに、エデン・プライムの摩天楼群が広がっている。全ての建築物は、アル